今日のは前からしばらく考えてたことのメモです。誰宛てでもないよ。
対人ゲーム、その中で主にTRPGというものを一応数年やってきてみて、何のためにゲームをするのか? という目的とそのために何をコストにするのか、という部分について考えております。
まあゲームをする目的というのは一貫して字義通りというか、楽しむためにやっており、その楽しむという範囲については遊び始めた当初から今に至るまで一貫しているわけでは別にありません。
当時には当時の、今には今の理由があって、TRPGを実際に遊びはじめた当初で一番ここが好きだな、と思ったポイントは「選択・リスクを負うストレスとそこからの解放の快感を現実に影響なく味わえる」というところでした。最初はCoCからだったんですが、プレイしていて、ここで行動すれば命はないかもしれない、しかし得るべきもの守るべきもののために動かねばならない、何をするかは自分の得た知識、判断、選択に委ねられている。さあどうする? 的な部分がとっても楽しくてはまったようなもんです。あとはキャラクターとして選んだように命を捨てることができる・死ねるところ。自分は死なないけど、そういうギリギリの選択みたいなものに対するプレッシャーとその命をかけたことに対する勝ち負けみたいなものを味わうことができるというのが良かった。なのでシナリオに対する手探り感とか因果のしっかりした構造、それらを活かす超常的な(いわゆる宇宙的恐怖を感じさせる)話が好きでした。
キャラクターとして当事者になって物語を味わえるという楽しみ方を知って、そこから派生してロールプレイもなるべくうまくできるように試行錯誤したり、そのうちロールプレイ巧者の動きを見て、参加者全員で物語を作る、そのパーツを即興で重ねていい感じの形を作るセッションを楽しむようにもなり、キャラクターを深堀することで創作(いわゆる一次創作的な)の楽しみも嗜むようになり、といろいろ広がってきたわけです。
この楽しみ方については自分の中での広がりであって、各所あるプレイグループではそのいくつかを楽しめたり、全部があったり、一部で深くそれを楽しんでいたりすると思います。だからいろんな人といろんな遊び方ができるのは楽しい。
でまあ目的としていた楽しさはそんな感じで広がって、ではコストについては? というところは別に突き詰めて考えてきたわけではなく、ゲームをするにしたがって、あるいはそれを楽しむからこそ、これに何を私は費やしているのかなというところにも目が向くので両輪で考えざるを得なかったという形です。
まずは時間。それから感情消費あるいはコミュニケーション。そして労力提供(何らかの技能を使って何かを作るようなこと)。主にはこの3つかなというところですが、まあなんであれそうなんですけどコストは人生すべてにかかるもので、それを何にどこまで突っ込むかということは人によって違いますよね。卓に対して「リアル優先」みたいな標語が出てくるのは、その辺りのスタンス表明が必要になるくらい、高稼働が必要な遊びだからだと思います(なんかコストっていうとビジネスメソッドにねじ込んで話してるみたいで若干気になるんですけどまあ自分にかかる負荷くらいの意味です)。
そしてそのコストをどこまで自分は許容するのか。線引きは状況によって変わります。忙しいけど睡眠をちょっと削って卓をする、作業できないけど立ち絵はピクルーや購入して用意する、連絡や提出物のやりとりが苦手だけどこまめに連絡する、ちょっと嫌な要素あるけど話が気になるから我慢して参加する、など人によっていろいろでしょう。ゲームをして楽しむ、ことにかかるコストをどの程度自分は払っているか。そしてそのバランスは、許容できるものなのかどうなのか。
考えると意外と、今ここまでコストをかけるなら遊ばなくてもいいかな、という線引きもあります。無理してコストをかけすぎて、いつの間にか「ゲームをする」ことが目的になっており(常態化、習慣化によるすり替え)、そのために飲み込んでいるコストが膨らんでいることに気づけず、なんとなく不満を抱えるようになる。これはようするに、得られる楽しさとコストは釣り合っているか? の目線がなくバランスの悪い収支の結果、ストレスをためているわけです。これが嫌なので、そうならないようにコストを見て線を引く。
別にこのコストは誰と比べるものでもなく、自分の中で、という注釈が絶対的に前につくものとしたうえで、「確かに楽しみは得られるかもしれないけど、睡眠や休息が十分に取れておらず健康や他の生活に滞りが出る」「楽しいところもあるけど一緒に遊んでいる人に時折ひどくストレスを感じる」「自分ばかり労力をかけているような気がしてきたけどやらないと卓がなくなる」「話の内容でショックを受ける」みたいなこと、それらはバランスを欠いていると思うので個人的には かけるコスト>得られる楽しみ となって、まあじゃあやめとこうかな、という判断になります。
で、さらに上記を単発の判断として行うとして、それが続く場合……つまり かけるコスト>得られる楽しみ という図が続くような場合、個人的にはですが(めっちゃ何回も言うけど一般論の話はしていません)、ゲームそのものに対する動機は減るし、そのうちなくなります。やってよかったな、よりもやってああ疲れたな……が大きければ、そもそもやりたいって思わなくなるよね、というのが自分の傾向なので、楽しみのためにかけるコストについて意識すること、それを自分がよいと思えるところまでに留めておくこと、というのは、長く楽しむためには大事なのかなと思っております。わりかし一般論に近い着地だと思うんですがどうだろう。まあ私の話なんで一般論はどうでもいいんですが。
というわけで近頃考えているのはこういう、持続可能な遊び方の話でした。自分の楽しみ方をきちんと自覚しておく(楽しめないことはそもそもモチベに対するデカいデバフである)、嫌にならない程度でコストは留める、楽しいと思えることをやれるときは大事に全力でたくさん楽しむ。そんな方針のことです。ちなみにこの「コストかかるからやめとこ線引き」というのは別にゲームに関する状況だけで決めているわけではなく、ゲームとは関係ない私自身の体力・健康・仕事・人間に対する考え方・社会状況・天気・気圧・その他もろもろでラインが動くので他人殿におかれましてはまったく気にしないでほしい。私も影響要因が多いのであんまり思いつめて考えてはいません。私は私ができるかぎり楽しく遊べるように考えているというだけであります。プレイグループと同じように個人にもいろいろな楽しみ方があり、それを人が左右するとか変えられるとか考えずに互いに誰もが尊重できるといいなと思います。合わなければ何事も離れるし合ってる限りはそこにいたりする。
なんでもそうですが、やってるうちに自家中毒起こして楽しかったはずのことが怒りや嫌な気持ちを想起させるものになるのは悲しいのでね。ペインを減らしてゲインを増やし、楽しいの打率を高めていきたいと思います。楽しむためにゲームやっておりますのでね。